セミナリヲ

イエズス会司祭・修道士育成のための初等教育機関。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父により織田信長の助力を受けて
1580年設立。同年頃長崎の有馬にも作られた。
1614年、徳川家康の禁教令によって閉鎖された。
セミナリヨ、セミナリョとも記述される。

ラテン語の古典と日本の古典を学び、音楽・体育の授業も
取り入れられたと言う。




名代としてローマに派遣

千々石ミゲル、 伊東マンショがキリシタン大名の正使として
派遣された。2人は大名の血縁者にあたる。
伊東マンショは大友宗麟の名代では無かったと言う文献もあるので
 後日記述を変更する事もあります。




天正遣欧少年使節

天正遣欧使節とも呼ばれる。アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父の
発案によりセミナリヲで学んでいたから4人の少年が使節として
ヨーロッパに旅立つ。目的をローマ教皇とスペイン・ポルトガル
両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼すること。
日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させ、帰国後に
その栄光、偉大さを少年達自ら語らせることにより、
布教に役立てたいとした。
(ヴァリニャーノ神父の手紙の中にあると言う)
1582年、長崎港を出発。1590年長崎港に到着。
使節の選考基準は「容姿端麗」「健康」「語学力に優れる」




伊東マンショ
1569年頃〜1612年



日向国主、伊東氏が支城(綾城)落城した際8歳で筑後に落ち延びる。
この時キリスト教と出会い有馬のセミナリヲに入る。
天正遣欧少年使節の大友宗麟正使として1585年教皇グレゴリオ13世
に謁見を果たし1590年長崎に帰港。1608年司祭に叙階。
小倉の教会で布教活動を続けるが1612年長崎で病死。
メスキータ神父と原マルチノに看取られ病死。享年43歳。 



千々石ミゲル 
1569年頃〜1632年頃

肥前国領主千々石直員(ちぢわ のうかず)の子。有馬晴信の従兄弟で、
大村藩主、大村純忠の甥。1580年洗礼を受ける。
天正遣欧少年使節の大任を終えた後、天草のコレジオでイエズス会
に他の3人と入会するが1605年、名を千々石清左衛門(せいざえもん)
と改名し大村喜前に使える。その後キリスト教を棄教。
大村喜前にキリスト教は邪教だと進言。喜前はキリシタン禁制発布。
キリスト教徒から強い反発を受けて藩内が動揺、これを鎮める為に
千々石清左衛門一人が責任を負わされて藩政・キリシタン双方から
追われる身となり有馬氏に身を寄せるが追われて長崎へ。
使節4人の内で唯一結婚し子供を儲けるが、良き理解者であった
であろう妻が1632年?!亡くなると2日後に後を追うように帰らぬ
人となる。
平成15年12月14日千々石ミゲルの墓石と思われる
墓石が発見される・・・奇しくも12月14日は千々石清左衛門の
無くなった日でもあった。





ヴァリャーノ神父 
1539年〜1606年

1582年、アジア人蔑視のポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラル
を去らせる。日本人司祭の育成こそが急務と考え安土と有馬に1580年
セミナリヲ(初等教育)を臼杵にノビシャド(修練院)を設立。
翌81年には府内にコレジオ(高等教育)を設立して日本国以内の
キリスト教の布教に努めた。
天正遣欧少年使節を発案し4人の少年使節をヨーロッパに連れて行くが
1583年インドのゴアでイエズス会の指示により官区長として
ゴアに留まる。1590年帰国する天正遣欧少年使節を伴い来日。
1598年3度来日。1603年巡察を終わり日本を離れる。
1606年マカオにてその生涯を閉じる。





修練院(ノビシャド) 

イエズス会士育成のため数段階の訓練過程を経て行われるが、
ノビシャドはそのうちの最初の段階である修練期の訓練を行う機関。
当初臼杵に開設されるが天草に移動。





イエズス会

キリスト教カトリック教会の男子修道会.。「教皇の精鋭部隊」とも
呼ばれた。創立者イグナチオ・デ・ロヨラが修道生活に入る以前
長く軍隊ですごしたことと深い関係があるらしい。現代では112カ国で
活動する2万人の会員がいる。これはカトリック教会の男子修道会
としては最大のものである。研究教育活動、宣教事業、社会正義事業
が活動の主なる目的。イエズス会の保護者は「路傍の聖母」。





コレジオ

イエズス会司祭・修道士育成のための高等教育機関。
聖職者育成と一般教養の教育の両方が行われ、キリシタンに改宗
した士族や宣教師を志す日本人・外国人に対して、キリスト教、ラテン語、音楽、数学などの講義が行われた。
コレジョとも記載される。 






中浦ジュリアン
1568年頃〜1633年

肥前中浦の領主、小佐々(中浦)甚五郎純吉の子。
教皇グレオリオ13世との公式の謁見には高熱の為に出席出来ず
教皇のはからいにより非公式ながら単独での謁見を果たす。
1608年司祭に叙階してからは博多の教会で布教活動を行った。
ジュリアンは最後まで日本に残りキリシタン弾圧の中九州各地を
まわり信者を励まし続けたが1633年小倉で捕まり長崎にて他の
神父、修道士と共に穴つりの刑に処せられて65年の生涯を殉教で
終えた・・・
2007年6月、ローマ教皇ベニディクト16世 は中浦ジュリアンを
福者に列する事を発表。天正遣欧少年使節でただ一人の列福である。

当サイト内レポート 中浦ジュリアン記念公園





参考にしたHP等

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

波佐見町教育委員会事務局

大村市ホームページ

諫早webサイト

「原マルチノ物語」
波佐見町教育委員会発行(昭和57年発行)




















 




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