2009年

東彼杵町〜日本二十六聖人乗船場跡
川棚町〜キリシタン墓碑



何度か訪れた事がある東彼杵町の日本二十六聖人乗船場跡
を訪れました。



駐車場にある看板にはこう記してあります。


日本二十六聖人 、それは、西暦1597年(慶長2年)
2月、長崎の西坂でキリシタン宣教師、信徒であるという
理由で処刑された、日本最初の殉教者である。

スペイン人の
フランシスコ会 司祭ペドロ・パウチスタは
マニラの布教ののち、フィリピン総督の使節として1593
年来日、肥前名護屋の朝鮮陣本営で豊臣秀吉と会見するなど
日比通商条約に努力したが、
サン・フェリベ号入港事件
契機とする、豊臣秀吉のキリスト教禁教令の強化により、
京都、大阪のキリシタンとともに捕らえられた。

豊臣秀吉は、殉教者達を厳しく罰することで人々へのみせ
しめにしようと陸路を徒歩で、或は馬で、1日約7〜8里
とゆっくり歩かせた。

1月9日、堺を立った24人のキリスト教信者は、堺、
姫路、岡山、広島を通り、1月31日博多に到着、翌日、
肥前名護屋近くの村、山本で捕われ人は26人となり長崎
へと進んだ。やがて、苦しい登り道を越えて
大村領の俵坂
峠にたどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の
素晴らしい景色が広がっていた。

(何度か探して回りましたが俵坂から大村湾は見えません。
34号線ではここらアタリで大村湾が見えますが長崎街道
からは外れています。かなり近くまで下りないと見えないので
これは単なるフィクションと考えられます)
 

そこで休息したペトロ・パウチスタは、岩の上に腰をおろ
して黙想した。今・・・死地へ向って進んでいる。しかし
自分が全身全霊を傾けた布教は始めたばかりなのに、それ
を継ぐべき同僚までも共に死んでいく。ペドロ・パウチス
タがすべてを捧げた仕事は、がらがらと崩壊していくかに
思われ、とめどもなく涙が落ちた。

昼を少し過ぎたころ、殉教者達は彼杵へはいった。
やがて、殉教者のうちフランシスコ会士以外は皆手を縛ら
れ、彼杵の浜辺に降りると、そこには三艘の船が繋いであ
った。それぞれの船に乗船させられた殉教者達は、水路
時津へと向った。空には、残月が光り始め、岸のあちこち
に漁村の灯火がまたたき、舟は単調な音を響かせながら
静かに水面を分けていった。翌2月5日、26人の殉教者
達は、長崎西坂の地で処刑された。

1862年6月7日、荘厳な祭典のうちに教皇ピオ九世は、
西坂の26人の殉教者を聖者の列に入れた。

この日本二十六聖人乗船場跡記念碑は、この殉教者の残
した足跡を記念するため、1986年、多くの人々の協力
で建設されたものです。

                        東彼杵町 












時津浦の方向だとあの対岸に向って舟は漕ぎ出された
のでしょうか・・・・

1962年には列聖100年を記念して西坂の丘に
日本二十六聖人記念館
記念碑が建てらています。


東彼杵町にはキリシタン墓碑があるそうですが個人宅の
庭らしいので探しきれませんでした。
(古い情報を得ていました orz 平成12年に町に寄贈されたそうです)
東彼杵町キリシタン墓碑



川棚町にも珍しいキリシタン墓碑があるそうなので
訪ねてみました。



川棚町の常在寺の横にある大墓にキリシタン墓碑はあります。



大墓の入り口からちゃんと案内板が出ていますので迷う
事は無いと思います。



西に上り進んだ外れの場所に墓碑はありました。


大村藩では明暦三年(一六五七)の郡崩れ(郡村を中心に
数百名の隠れキリシタンが発覚処刑された)のあと、領内
のキリシタン墓は徹底的に破却されたが、元和八年(一六
二二)に没したこの富永二介の妻の墓碑は奇しくもその難
を免かれたものである。

常在寺の過去帳に明暦二年に死亡した富永治介の名がある
が、この過去帳は一度書き直されていて、そのとき二を治
に書き違えたのではないかと伝われている。

墓碑の中央・〜は略の意味で、その下はクルス、○の下
MACi(マンシア)はキリシタン名と伝われるが異説もある。
このような和洋折衷様式の墓碑は全国でも珍しいという。

一九八五年 川棚町教育委員会
 


案内板にはこう記してありました。


幕府、領主の弾圧も、各地の寺社を焼き討ちにした
キリシタンに対する憎しみもあったでしょう。

しかしこうして貴重な財産が残っている事は現代に生きる
私達には重要な事かもしれません。


発見者、宇久忠次 同行者、野中勝美。
大正15年冬、野鳥を罠を使って2人は捕ってました。
雑談中、宇久さんが地面にある石に足を乗せてグラグラと
押していたら、石がひっくり返りました。
東西両洋の文字が陰刻されているのを発見し、野中さんが
家に帰り障子紙に写しとり宇久さんが大阪朝日新聞社へ
送ると「川棚に隠れキリシタンの墓発見」と掲載されました。
 


資料
喜々津健寿 著 「続川棚歴史散歩」
 





2011年3月、川棚町にあったキリシタン絵踏跡が有ることが
分かりましたので行ってみることにしました。



川棚町役場第2庁舎裏にあたる駐車場 が別当屋敷跡です。
ここでキリシタンの絵踏(踏み絵)が行われたそうです。



絵踏が行われてるその目の前の常在寺の大墓にキリシタン墓碑が
残っていたなんて、皮肉と言いますか灯台下暗しと言いますか・・・


町別当とは宿場を取り締まる役人です。
毎年正月、大村から踏絵を持って役人が
船に乗ってやってきました。
絵踏みの費用は一人一一文づつ村民が負担し
五人組単位で絵踏みし無事に済んだら赤飯を
炊いて祝ったということです。
人出を見込んで露天も並んだそうです。
後、大正・明治は川棚郵便局として使われたそうです。

資料
喜々津健寿 著 「続川棚歴史散歩」 
 






川棚の町並みの手前に見える突き出たところの先が
日本二十六聖人乗船跡になります。

その先に薄く見えるのが大村です。




余談になりますが、キリシタン大名、 大村純忠は寺社を破壊し、
先祖の墓所も打ち壊しました。

キリスト教を棄教した子、大村喜前 はキリシタンを迫害し
キリシタンから焼き討ちにあった神社仏閣を再建し、
波佐見焼の恩師・李佑慶を波佐見に連れて来たのも喜前です。

人は一方向からだけでは見て簡単には判断、批判は出来ない。
人の前に立つ者達の苦悩を感じました。 



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2009年11月 更新

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