2009年

大村市

大村藩とキリシタンの史跡巡り

今回は大村藩、特に大村純忠と大村喜前と
キリシタン史跡を中心に秋の大村を散策しました。


大村純忠
(おおむらすみただ)1533年〜1587年。

日本初のキリシタン大名として長崎港を開港した人物
としてご存知の方も多い事と思います。
領民にも広くキリスト教を広め6万人もの信者が
大村藩に居たそうです。


大村喜前
(おおむらよしあき)1569年〜1616年)。

大村純忠の長男で洗礼名をドン・サンチョと言いキリシタン
でしたが棄教して日蓮宗に改教し豊臣秀吉のバテレン追放令
に沿ってキリシタン弾圧を行った。
(純忠の存命時にも弾圧は行われていたらしい)



さて史跡巡りは出来るだけ道順で回りますので話が前後するかも
しれませんが、出発しましょう。



まず向うのが「今富のキリシタン墓碑」です。

国道34号線から左折する場所に案内板がありましたので
安心して向うと突き当たりのT字路には案内が無い・・・
下調べしていましたので迷いはしませんでしたが
林に入る所に1つだけ案内板がありました。


「今富のキリシタン墓碑」

県指定文化財

今富のキリシタン墓碑

  この墓碑は、半円柱蓋石型のキリシタン墓碑で、
 墓石の上部、本来なら伏碑にした場合、正面にあたる
 ところに「台付千十字紋」を刻んだ典型的なキリシタン
 墓碑です。
  墓碑には、「天正四年丙子十一月十一日 不染院水心
 日栄霊一瀬治部大輔」と刻んであり、墓の主は、一瀬
 越智相模栄正と考えられています。
  栄正は、日本最初のキリシタン大名として知られる
 大村第十八代大村純忠が、永禄六年(一五六三)重臣
 二五人とともに、横瀬浦で洗礼を受けた時の一人と言
 われ、天正四年(一五七六)に没し、その子一瀬治部大輔
 が、父のために墓碑を建てました。その後、キリシタン
 禁教時代となり、大村藩内ではキリシタン墓地の探索と
 破壊が行われ、取締りが厳しくなったため、墓碑を
 縦に起し、仏教の戒名を記し、仏式墓碑に改造したものと
 考えられています。墓の右には手水鉢が置かれていますが
 これも元は同様のキリシタン墓碑であったものを転用した
 ものです。
  この墓碑は、わが国でも古い時期のもので、天正年間、
 領内に全盛を極めたキリシタンの名残をとどめるものです。

平成八年三月

大村市教育委員会

現地案内板より 





まず手を合わせてから写真を撮らせて頂きました。

なるほど上に台付き千十字が掘ってあります。
現存するキリシタン墓碑の少なさから見て徹底して
破壊されたのでしょうね・・・


もうひとつ「田下のキリシタン様式の墓碑」があるのですが
途中に大村純忠が亡くなった坂口の居館跡を訪れましょう。



そこは大村純忠史跡公園となっています。



緑の多い良く整備された公園です。



坂口館を一部再現したものでしょう。

市指定史跡

大村純忠終焉の居館跡

  ここは、日本最初のキリシタン大名大村純忠が晩年を過した
 館跡です。古くから坂口館と呼ばれてきました。
  南蛮貿易のため、長崎開港や天正使欧少年使節の派遣など
 多くの歴史的偉業を行ってきた純忠ですが、佐賀の戦国大名
 龍造寺隆信の圧迫により、領主の座を退き、居城三城城より
 重臣庄頼甫の屋敷であったこの地に隠居しました。純忠は
 この屋敷で約2年間過ごし、天正15年(1587)54歳
 で亡くなりました。
  現在、この奥には庭園の跡と言われる泉水が残っており、
 市の史跡に指定されています。この泉水は「館の川」
(たちのかわ)
 と呼ばれ、どんな干ばつでも水が枯れなかったと伝えられて
 います。ここは、純忠が晩年を過した貴重な場所として
 保存し、公園として整備されました。

               公園内の案内板より





今も残る「館の川」。この泉水を眺め純忠は生涯
キリシタン信仰をしたのでしょうか・・・


田下のキリシタン様式の墓碑を探しに萱瀬に向います。

大体の場所は調べていたので行くと木の葉に隠れていましたが
橋を渡る矢印と30mの文字の案内板がありました。
橋を渡ってきょろきょろと見回しながらカブ号を走らせますが
それらしい物は見当たりません。古戦場跡で農作業されてる
お年寄りに聞きましたが知らないそうで・・・
(地図が正しいなら看板のあった林の奥みたいですが・・・) 

近くの墓地を探しても見つからず諦めて「郡崩れ」の
発端になった仏の谷洞窟のある斜面を見学にいきます。

 

                 郡崩れ

  明暦3年(1657年)のある日、長崎に住んでいた池尻理左衛門は、
 大村から遊びに来ていた知人から次のようなことを聞きました。
  「郡村の矢次という所に、天草四郎の生まれ変わりという神童が
 現れてのう。その神童は萱瀬村の山奥に不思議な絵を隠し持って、
 実に奇妙な術を説くんだそうじゃ。もしおまえさんがこの術を
 見たければ、そこにつれていってもよいが、どうじゃな。」
 こう語ったのは大村の郡村に住む兵作という男でした。
 話を聞いた理左衛門は、すぐにキリシタンだとわかりました。
 そこで、聞き流しておいては大変と思い、すぐに町役人に
 知らせました。そして、その話を受けた長崎奉行は早速、
 兵作を取り押さえました。

  長崎奉行からただちに使いが大村へ飛び、藩内にキリシタン
 がいるらしいという知らせに、大村城内は大騒ぎになりました。
 そして連日、兵作の妻子や近親者、萱瀬の山中の隠れ家に集
 まっていた者たちが次々と捕らえられました。天草四郎の再来
 と呼ばれた少年は、名を六左衛門といい、その家族が中心と
 なって、ひそかにキリスト教の信仰を続けていたのです。
 それは、長年の間に日本の習俗などと交じりあって、
 まじないのようになり、その力で多くの信者を引きつけていま
 した。信者たちが集まった場所は、萱瀬の仏の谷にある十畳敷き
 ほどの岩陰でした。

  事件は日を追うごとに、郡村、萱瀬村、江の串村、千綿村へと
 広がり、ついに逮捕者は603名にものぼりました。取り調べの
 結果、疑いの晴れた者99名、永牢者20名、取り調べ中病死した
 者78名、そして残り406名が打ち首と決まりました。打ち首に
 なる者はあまりにもその数が多かったため、各地に分けて
 処刑することとなりました。大村では131名、長崎118名、
 佐賀37名、平戸64名、島原56名とそれぞれの地で処刑されました。

  大村で処刑されることとなった131名は、刑場となった放虎原に
 引き立てられました。途中、妻子、縁者との最後の別れが
 許されました。その場所となった西小路には、今も
 「妻子別れの石」が残っています。刑場に着いたキリシタン
 たちは、四列に並べられ、次々に首を打たれていきました。
 切られた首は、処刑されたのち約20日間も、見せしめのため
 大曲の獄門所で、さらし首にされました。その後さらされた首は、
 原口にあった榎の根元に、胴体は処刑後まもなく桜馬場の道路脇に、
 それぞれ埋められました。現在その地は首塚跡、胴塚跡として
 伝えられています。

  この事件を「郡崩れ」といい、これをきっかけとして、
 事件のあった一帯からは、キリシタンの姿はまったく消えてしまい
 ました。

「大村の歴史」より抜粋 

大村観光ナビより引用
 





大村の信者が1988年に発見したそうです。

この斜面のどこかに洞窟があるそうですが流石に登って
探すのは苦労しそうなので遠目で写真撮るのみにします。



宝生寺の教会跡に寄ってみたのですが、現在では
住宅地になっていました。(地図

大村純忠の遺体は最初はこの地に埋葬されえたそうです。



次に訪れるのは史跡ではありませんが「天正夢広場」です。



天正遣欧少年使節絡みと大村市立史料館に
キリシタン関係の展示物を見に行くついで(笑)です。



リスボンのベレンの塔を模してあるそうで
天正夢時計と言うそうです。

からくり時計で時間になると人形が出て来るそうですが
11時10分・・・50分も待てそうにありません。

森園公園にも天正遣欧少年使節の像が建っています。




天正夢広場の隣に大村市立史料館があります。

2階に史料が展示されています。「無原罪の聖母」のメダリオン
と原口郷のキリシタン墓碑目当てで見学しましたが
残念ながら写真撮影は禁止されていましたので画像は
ありません・・・大村観光ナビに画像がありますので
そちらで見るか、実際に史料館に出向いて見て下さい。

「無原罪の聖母」のメダリオンは県指定有形文化財です。
大村家家老宇多氏の墓から出土したそうです。

「原口郷出土のキリシタン墓碑」も県指定有形文化財です。
上部に花十字、その下に霊名・俗名を記してあり、このように
2段に名を記したものは他に例を見ない珍しいものですが
老眼が悪いのかよく見て取れません(w

横に紙に写し取った物がありましたのでなるほど花十字と
「BASTIAN」と「FIOBV」と読めます。
   バスチャン     ヒョウブ         ヒョウブ  


次は4代純長が造った旧円融寺の庭園を見学します。

ここは深沢義太夫勝清の寄進で造られたといいます。
画像などは深沢義太夫勝清のレポートからどうぞ!


次に訪れるのは大村喜前の居城「玖島城」を見学しましょう!


レポート2へ続く


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