2009年

大村市

大村藩とキリシタンの史跡巡り




玖島城大手門より入ります。

大村喜前より270年余り大村氏の居城でした。
今は南側だけが海に面してますが守りを重視して3方を
海に面したお城だったそうです。



本丸まで90度に折れる道、城壁には鉄砲穴。
この穴が三角、丸、長方形で可愛いかったりしますw
玖島城に関しては下調べしてなかったので思ったより
面白いですねぇ〜(w



台所口門跡です。



本丸跡に出ました〜!

歴代の大村藩主を祀る大村神社がありました。



銅像は大村藩12代純熈
(すみひろ 最期の藩主)その隣には
大村喜前の遺徳碑が建ってました。


  大村喜前は、キリシタン大名大村純忠の長男として
 生まれ、幼くして洗礼を受け、霊名をドン・サンチョ
 と称しました。その後、佐賀の龍造寺隆信のもとに
 送られ、人質として過しました。

  純忠についで大村家を相続し、大村家第十九代となり
 、秀吉の薩摩天草攻め。朝鮮出兵に従軍し、戦功を
 たてました。秀吉の死後、天下が乱れるのを恐れて、
 慶長四年(一五九九)玖島城を築いて、新しい城下町
 を造りました。徳川幕府が開かれると、本領を安堵
 され、初代藩主となります。一方、キリスト教の禁止が
 厳しくなると察知し、領地を守るため、キリスト教を
 棄て日蓮宗に改宗し、本経寺など多くの社寺を建立
 しました。

  さらに朝鮮出兵の論功行賞を兼ね、ご一門払いという
 家臣団の改革を行い、藩主の威厳を確立し、家臣団の
 結束を固くしました。また、二回にわたり、領内の
 総検地を行いました。

  このように、喜前は藩政の基礎固めを進めていきまし
 たが、元和二年(一六一六)四十八歳で急逝しました。
 本経寺に葬られ、「中興の祖」とあがめられています。
 この碑は大正四年に建立されたものです。

昭和五十七年二月

大村市教育委員会

案内板より
 


大村純忠、喜前親子、揺れ動く時代に処世術を駆使し
生き抜いたのでしょうね・・・どちらの生き方も人の
前に立つ者の苦渋の選択だったかもしれないと思います。




妙な石を見つけました。

「貝吹き石」通称「ほら石」と言うそうです。
小さな穴を吹くと法螺貝の音を出すそうです。
(残念ながら試していません・・・)

龍造寺隆信が萱瀬村を襲撃した時に砦に立て篭もり
純忠にほら石を使って隆信と戦う合図をしたそうです。
吹いてみれば良かったかな??!!!




大村藩、お船蔵跡です。

海の守りの要だったのでしょうね。
2つのドックがあります。石垣の上には四角い穴。
もしかすると柱がここに立ってて屋根があったのかな??!!
いろいろ思いにふせて見てまわりました。


この先に大村氏の先祖の上陸地がありますので行ってみましょう。
と、途中に大村藩縁のお墓があるようなので寄って見ましょう。



大村彦右衛門の墓です。


  大村彦右衛門純勝は、大村家四代の君主(純忠、喜前、
 純頼、純信)に仕えた忠臣で、大村藩初期の基礎固め
 や、跡継ぎ問題による取り潰しの危機を乗り越える
 など偉業を残し、名家老とうたわれた人物です。

  彦右衛門は江戸時代のはじめは、キリスト教禁教や
 御一門払い(親領払い)といった藩政の基礎固めに
 携わり、藩の中枢として活躍しました。御一門払い
 とは、藩主の親戚などで大きな石高を持っていた
 家臣から石高を取り上げ、藩主の財政と権力の強化
 を図った政策です。

  また、二代藩主純頼の急逝によるお家取り潰しの
 危機にも家老として大きな活躍をしました。
 元和五年(一六一九)純頼が急死し、このとき嗣子
 松千代(後の純信)は、わずか二歳で、幕府へ跡継
 ぎとして届け出をしていませんでした。
 このままでは松千代は幕府に大村藩の相続が認めら
 れず、藩はお取り潰しの危機を迎える事になります。
 このとき家老であった彦右衛門は、幼君松千代と
 ともに江戸に上がり、幕府の実権を握る家老らに
 大村藩の存続を願い出ました。

  しかし、当時はこのような相続は認められないのが
 常であり、取り潰しは免れない状況でした。
 そのような状況の中、彦右衛門は家老を懸命に説得
 し、また小藩では難しい大阪城の普請を藩の財政を
 やりくりして行うなど幕府の難題を果たし、半年後
 、遂に相続の許しを得ました。
  この相続で活躍した彦右衛門と松浦右近は後々まで
 讃えられ、二家は代々別格の家老として扱われ、
 また、彦右衛門の名はその子孫に受け継がれました。
 ひときわ大きな彦右衛門純勝の墓を中心に、一族
 の墓が並んでいます。

  また、墓所の入り口横には、松千代相続のとき、
 大病の松千代の身代わりとなって命を落とした彦右衛門
 の娘亀千代を祀った、「身代わり観音があります。

平成十年三月
大村市教育委員会

案内板より
 




こちらが「身代わり観音」です。

僅か3歳の我が子を刺殺したなんて・・・・

私には絶対出来ない事ですが名を残したのは事実ですね。
正面観音像の横の女像は生母の姿をしてるそうですが
扉は閉ざされてるので判りませんでした。





寺島です。

大村氏の祖先は藤原直澄でこの寺島に上陸して久原城
を築き大村姓を名乗ったそうです。(※1 異説もあるとか)

藤原直澄は大村湾に船で入った時に以前紹介した
母衣崎に上陸し休憩を取っています。母衣崎四本堂公園レポート





市杵島神社と竜神社。

どっちがどっちか確認し忘れました・・・  orz

寺島は島の周りをぐるり一周できます。

南側には船のともづなを結んだという夫婦岩がある
そうですが、コンクリート柱が立った岩がそうだった
のでしょうかねぇ?!古い案内板を見るとそうとしか
読み取れませんが一つの岩はほぼ水没してました。



次はキリシタン史跡、「鈴田牢跡」へ向いましょう。



レポート3へ続く

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※1 大村純治(純伊)以前の系図がハッキリしてないらしいです。
  現在ある系図の名前が古文書などに一切記載が無いから
という理由があるそうです。
また、昭和32年(1957)の大村大水害時のがけ崩れで偶然出土
した大村純伊の五輪塔地輪には、「平」姓が刻まれていたそうです。


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