2009年

西海市

横瀬浦と南蛮船と宣教師
宣教師達の足跡

1550年、ポルトガル船が黄金の国ジパングを求め鹿児島に
上陸し、平戸が開港されてから南蛮貿易貿易が始まりました。
(この時フランシスコ・ザビエルが入国し布教を開始します)

1561年、平戸でポルトガル船員が殺害される事件が起り
1562年、別の港を探していたポルトガルに
大村純忠は横瀬浦を提供しました。

この時、尽力したコスメ・デトルレス、ルイス・デアルメイダが
横瀬浦を訪れて布教活動をはじめます。

1563年、大村純忠は横瀬浦で洗礼を受けます。
純忠がキリシタンになった為、その後の貿易、キリスト教
の布教が盛んになりました。




フェリー乗り場の近くに「史跡 南蛮船来航の地」の
碑が建っています。


横瀬浦は永禄五年(西暦一五六二年)大村純忠によって
開港された。ポルトガル船の来航に備えて、新しく作られた
上町や下町には各地から商人が集まり、眺めの良い城山には
美しい天主堂や大村館も建てられて、平戸に代わる貿易港
として将来を祝福された。
 その期間は僅かに二か年で、船の入港も二回にとどまった
が、このことは後の長崎開港の先駆となり、また日欧通交に
端を発する近世日本の誕生に重要な影響を及ぼした。

碑板より転書
 




この小高い丘周辺が横瀬浦公園です。
(過去の横瀬浦公園のレポートはコチラ




階段を上がると体験学習棟があり南蛮貿易やルイス・フロイス
の事や関連する事を学べます。



体験棟を出ると広場には2つの碑と3本の柱が立っています。
左の碑には司馬遼太郎の「街道をゆく」に出てくる横瀬浦の
一節がが書いてあります。 真ん中の3本の柱は
コスメ・デ・トルレス、ルイス・デ・アルメイダ、
ルイス・フロイスを表しているそうです。


コスメ・デ・トルレス(1510〜1570)
フランシスコ・ザビエルと供に初めて日本にキリスト教の
布教にやって来た、イエズス会の宣教師です。
2年間の布教活動の後、インドへ戻ったザビエルに
トルレスは日本での布教の責任を任されます。

トルレスは日本人の文化・生活習慣など尊重して受け入れ
人々と触れ合う中でキリスト教を広めていきました。
平戸よりルイス・デ・アルメイダと供に横瀬浦に入り
天主堂を建て布教活動を行いました。

しかし、横瀬浦は焼き討ちに遭い、各地を転々として
1570年6月に新しい布教長を天草で迎えて、その年の
10月に亡くなられました。


ルイス・デ・アルメイダ(1525〜1583)
医師の免許を持ち、商人として貿易を行い莫大な富みを得
ましたが、コスメ・デ・トルレスとの出会いでキリスト教に入信。
トルレスの片腕として日本での布教に尽くすと供に豊後府内
に私費で乳児院を建て、1557年、内科・外科・ハンセン氏病科
を備えた日本初の総合病院を建てました。
1558年、医学教育を開始して後、九州各地で治療を行いました。
この為でしょう、多くの人の信頼と尊敬を得て布教が進みました。
1580年、マカオで司祭に叙階されて日本に戻り医療活動を
続けますが1583年10月、アルメイダを導いたトルレスの
眠る天草の地で天へと召されました。




体験学習棟裏から下りる階段の下にルイス・フロイスの銅像があります。
フロイスは身長が195cmあったそうでほぼ等身大の銅像だそうです。

ルイス・フロイス(1532〜1597)
フロイスは16歳でイエズス会に入会しましたが、同年
インドのゴアでフランシスコ・ザビエルと出会います。

まだキリスト教徒がダレも踏んだ事の無い地へと向かう
ザビエルの姿はまだ若きフロイスの目に眩しく映った
事だと思います。この事があってか、15年後の
1563年7月6日、横瀬浦に上陸しました。31歳だったそうです。
1年間この地で日本語を習い、布教の為に京都に向います。

1569年、京に入った織田信長に二条城の建築現場で
対面し、その後信任を得て布教の許可を得ます。ですが後の
豊臣秀吉の出したバテレン追放令を受けて長崎に戻ります。

1591年、天正遺欧少年使節アレッサンドロ・ヴァリニャーノらと
共に秀吉と聚楽第で謁見しました。
天正遺欧少年使節に関連して、原マルチノのレポート

一時マカオに渡りますが再び長崎に戻り、1597年、65歳で
亡くなるまで多くの著作を残し、中でも「日本史」は庶民の様子や
事件など細かく書いてあり日本史の重要な記録だと言われています。



3人ともザビエルの望む適応主義を全うして、日本の文化を
理解し、受け入れ、それぞれにあらん限りの事を生涯成されて
日本の地に還られました。




右側の碑には大村純忠がトルレスから洗礼を
受けている姿や南蛮人様子を陶板にして張ってありました。




「最初のポルトガル人がこの地を
訪れてから429年
      1990年8月
      ロルシャ・マカウ号」
と石にはプレートがはめ込んであり横には


古来長崎の天地に太陽は西から輝いていた。
歴史、文化もまた多く西方からもたらされた。
十六世紀大航海時代の幕開きと共に西欧文化が
貿易風に乗って此地に揚陸交流される。
春西海の水平線は弓なりに沸ぎり立つ。
潮流に帆を孕んで一隻のポルトガル船が
横瀬浦に入港する。
時に永禄五年(一五六二)日本全土は戦国の
渦中にあった。
領主大村純忠はローマイエズス会修道士と英明、
周到なる交渉に依り開港する。
且つてない文物の往来と、キリスト教伝播の実は
忽ちまちにして「ヨコセウラ」の名を内外に特筆
さるるに至も神の恩寵のもと、祈りの声を絶やす
ことはなかった。
永禄六年夏突如「聖なる御救いの港」炎上横瀬浦
草土と化す。
我国精神史上に大いなる一頁を刻した此処「ヨコ
セウラ」に昔日の姿は一片もない。
語る街ない波静かな海の蒼に、白く鉢の子島の
十字架が遥かな夢を映してる。
平成の世、改めてポルトガル国マカオ政庁より
日葡友好親善を再見すべく記念のプレートの贈与を
受くる意義深い四百有余年の先史に学び、由緒ある
再会の丘に西海町々民の賛意を表し、今日をトして
碑を建つる。

平成二年(一九九〇)八月二日
 


こう刻まれていました。



展望台横には天主堂跡の碑が建っていました。

西海市教育委員会の方の話によると、天主堂の
本来の位置は今の道路付近ではないかと言う
記事を見つけました。(長崎県文化振興課のHP)





展望所の下辺りには「寺屋鋪五輪塔郡」が保存されていました。
主に室町時代に作られたもので周辺の田畑や道路工事時に
出土したもののようでです。



横瀬浦公園内にあるので、取り上げておきます。
(今のところコレだけに関してページ作る予定が無いので)

横瀬浦公園の地図
TEL 0959−32−2760


横瀬浦と南蛮船と宣教師
「横瀬浦の史跡を巡り」へ続く



参考にしたHP

フリー百科事典 ウィキペディア

さいかいシティ.ねっと

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