川棚町

川棚海軍工廠跡

今も遺構が残っているので記録として残して置きたいと
思い2010年4月に2回取材に行きました。



川棚町百津郷城山公園には「歴史と平和の塔」があります。
その碑にはこう記されています。


歴史と平和の塔

全国各地から動員された工員たちで町はあふれていた。
工員達の青春の一ページが刻まれた「川棚町海軍工廠」−。
現在は過去と未来の接点であり、歴史があり、現在がある。
工廠跡地の一望できるこの地に忘れてはならない歴史を
刻み、未来へと続く平和も祈る。
平和を願う時計塔を中央に配し、前後をヒストリーウォール
で囲んだ。側面から見ると工廠のシルエットが浮かび、
上空から見ると川棚町章の形に見える。全体に半地下壕の
工場や鋸屋根、煙突など”工廠の町”の当時の風景を
イメージさせるものにしている。
 


城山公園から南に開ける町並みを見渡すと、正面に見える範囲に
かつて川棚海軍工廠があった土地を見渡せます。
川棚海軍工廠のあった場所を写した動画



風景を眺めて振り返るとそこには慰霊の塔があります。



さて、次は今も残っている川棚海軍工廠の遺構を探してみます。
川棚海軍工廠は昭和17年10月15日、佐世保海軍工廠川棚
分工場として開廠され、翌5月1日川棚海軍工廠となり、当時の
日本の一番の水雷工場となりました。水雷と言うと魚雷や爆雷の
事ですね。これにより片島の魚雷発射試験場が拡張されたそうです。




監視所(トーチカ)です。
小柄な(165cm)の私でも小さいかな?!っと思える大きさです。
入り口は狭いです・・・扉があったのかな?!
そうでないと入り口から入った銃弾が跳弾して中の人は・・・



「12」と書いてあるように見えますね。
少なくとも12個はトーチカがあったと推測させます。



監視窓が見えます。
私でも中腰で覗かないと外を見られないようです。



川棚川河口から400m程は桟橋として利用されていたようです。
写真の左端にビット(ボラード)が写ってます。



別角度からの写真。
石積みの護岸は当時のものかと思います。




川棚海軍工廠の今でも民家が使用しているレンガ造りの倉庫。



こっちはすぐ近くにある屋根が落ちた廃屋。



205号線から撮った同じ建物。

川棚海軍工廠では主に魚雷(91式)を生産していましたが
震洋も作られ新谷の訓練所に送られたようです。
特攻殉国の碑レポート

もう一つ遺構があるはずなのですが見つける事が
出来ませんでした。見つけたら後からアップします。

大村や佐世保に比べて空襲が少なかったのには理由が
あるようで、米兵が持っていた地図には川棚海軍工廠は
ビール工場と記されていたそうです。

昭和20年8月15日終戦、10月には占領軍の大隊が
駐屯したそうです。

海軍共済病院跡の防空壕跡も今度アップします。


次は戦局悪化で川棚町石木郷に疎開した工場跡等を
見に行きましょう。


川棚海軍工廠石木疎開工場跡


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