2010年

嬉野市史跡巡り
キリシタン史跡と長崎街道



前回の大村藩とキリシタン史跡巡りの下調べで気になっていた
嬉野町のキリシタン史跡を見に出掛けました。

キリシタン史跡は不動山一帯にあります。

不動山に於ける切支丹伝説

当地で切支丹が盛んであったのは、1600年前後から
イタリアの宣教師カミロ・コスタンゾが不動山に潜行し
(1621年)ひそかに布教をしていた1630年頃まで 
である。 当時は、既に迫害がひどくなっていた時で
あるが不動山伝習所(1614年破壊)には、一時は
バテレン(神父)二人とイルマン(教師)二人が居て
多数の人々に洗礼を施したといわれている。

垣内史跡の案内板より
 



不動山に入って最初に出会う看板「キリシタン史跡」はココ
三叉路にあります。左折すると道なりに案内板があります。




太刀洗川史跡

順番から行ったら次の垣内史跡から紹介するべきでしょうが
コチラが手前ですので・・・・

嬉野史跡太刀洗川

キリシタン弾圧において宗徒を斬った太刀を洗った
ことからこの名が残ったと云う。
川口に沿った集落を館や川内と呼ぶが太刀洗川内から
とった地名とも伝われる。また、この太刀洗川の川上に
垣内史跡があり、垣をめぐらしそこに宗徒を収容したとも
伝えられている。

年代 天正15年(1587) 豊臣秀吉 禁教令
    慶長17年(1612) 徳川幕府 禁教令
      慶長19年(1614) 不動山大舟の伝習所
         破壊
      元和 7年(1621) 神父カミロ・コンスタン
                  ツォ不動山に入る
      元和 8年(1622) 神父カミロ・コンスタン
                ツォ平戸にて殉教
       寛永11年(1634) 不動山の大村四郎兵衛
                   一家ら5人火刑される

太刀洗川史跡案内板より
 




今は穏やかな川面もその時代には・・・・


 

垣内史跡

大刀洗川史跡より400m程坂を登った小川の向こう側に
垣内史跡があります。


切支丹信徒を斬った血太刀を洗った川を大刀洗川と云うが、
その川の上流を「垣内」とよんでいる。
ここには、もと垣をめぐらした簡単な牢獄のような施設が
あり、そこに捕えた信徒をつないでいたと云う。
「垣の内」と呼んでいたのが「垣内」にかわったものと
思われる。
この中につながれていた信者たちが安らぎを求めて神に
祈る姿がしのばれる。

切支丹史跡「垣内」の案内板より
 


囚われたキリシタンは祈ることしか出来なかったでしょう。


太刀洗川史跡まで戻って先に進むと、本通りに繋がる三叉路がありますので
本通りに戻りますとすぐ近くに「心月妙泉尼之碑」があります。



心月妙泉尼之碑


寛永のころキリシタン討伐が阿修羅のように
荒れ狂った時、赤ん坊を抱いて逃げようとした
女人を切った。
ところが女人はいまわのきわに「ナマンダブツ
ナマンダ」と唱えながら・・・
念仏を耳にし仏教徒であったことがわかり
あまりの哀れさふびんさに、この碑を建立して
とむらってあげたと伝えられている。


碑文より
 


いきなり家に踏み込まれたら野党かもしれないから
逃げるでしょうに。このことから他にも関係ない人が
巻き添いになった可能性がありますね。




馬場之子屋敷跡

心月妙泉尼之碑から少し先に馬場之子屋敷跡があります。


不動山地区で切支丹が盛んであったのは西暦1607〜
1650年頃と云われ、子屋敷という名称は「子供達の
家」と云う意味でそんなものがあったのだともいわれ、
また迫害をさけて逃げる切支丹が子捨谷(現在の幸助谷)
で棄てた子供たちを焼いた所だとも云われている。

ただ注意すべきことは明治半ば頃までは、旧暦11月
25日にここに村人たちが集まり祝宴を開いていたと
いうことである。そのとき彼らはこの地にあった石碑
(もいし塚)に「おみき」と「三角握飯」を供え
「モーシサマ」とか「モイシサマ」と呼んで拝んで
いたと云う。これは、ポルトガル語「モコス(子供の
意)」が訛ったものではないかと思われ、また祝宴の
期日は12月25日のクリスマスにあたる旧暦の
11月25日に催したものと思われる。


案内板より
 


この説明では実際は子供達がどうなったかどうかはハッキリ
しないようですが、切支丹の弾圧は凄惨を極めたと聞きます。




子捨谷史跡

馬場之子屋敷跡少し登ると橋の手前に上不動地区集落センター
があります。子捨谷史跡は少し入った場所で自動車では無理
なのでこの辺りに車を止めて集落センターの横の道を上り右に
行くとすぐの所にあります。

子捨谷(幸助谷)

役人に追われた大舟部落から逃げ上がったキリシタン宗徒が
いよいよ危なくなって連れていた子供たちを、この谷底へ
投げ捨てたことにより、子捨谷と呼ばれると云う。尚、
この地区の上方、山本川内には野添という地名があり、
子捨谷で捨てた子を信徒がここから「のぞいた」からと
いわれている。
 (時代 1607年〜1650年)

案内板より
 


「子供たちを、この谷底へ投げ捨てたことにより」という行がどうも
引っ掛かりますね・・・置いていったのでは無いかな?!



野添史跡


迫害を逃れるため、信者達は幸助谷(子捨谷)で足手まとい
の子どもを捨てたという。
しかし、逃げながらも流石が気になるのが親心、捨てた子ども
たちはどうしているだろうと立ちどまって、ここからのぞいて
みたといい、その「のぞく」が転じて「のぞえ」になった
といわれている。切支丹哀史から出た地名の一つである。

案内板より
 


コチラの案内板では置いていった感じですね。
子供達だけなら温情で命だけは助けて貰えるかもとの
一縷の望みがあったのかと思いました。

ここから山に逃げ入っても波佐見・川棚・東彼杵と抜け出る
訳にもいかなかったでしょう・・・人が進める場所なら追手も
追跡を諦めることはないでしょう。その後彼らがどうなったのか
なにかの機会に知ることが出来るかもしれません。
その時にまた更新します。



親達が振り返って見たであろう今の風景です。
400年前も谷の形はあまり違ってないのかもしれません。


折角ここまで来ましたので大茶樹を見ていきましょう。





嬉野の大茶樹

国指定天然記念物
嬉野の大茶樹
指定年月日 大正十五年十月二十日

茶はつばき科に属する常緑の潅木で製茶飲用として
広く栽培されている。
 年月の経過した茶には十月頃に白色五弁の花を咲かせ
その果実には通常三個の種子をもつ。
 この嬉野の大茶樹は元来一木で樹高約四m枝張り
約一二mを側り樹齢は約三四0年を推定され茶の代表的
巨木として歴史的学術的に評価の高いものである。
 
 この皿屋谷地区には嬉野茶の祖として吉村新兵衛が
祭られている。
 吉村新兵衛は役目のため肥前白石郷(現白石町)から
この地へ移住し、慶安年間に往来札に関して法度に触れ
切腹と決められたが、先代の武功により助命され、その後
茶の栽培に尽力し、嬉野茶を創始したとされている。
 吉村新兵衛は藩主鍋島勝茂が逝去したおり(一六五七)
に白石の居宅にて殉死を遂げている。
 この大茶樹は、この頃に植裁されたもののひとつで
あると伝えられている。

嬉野市教育委員会 


中を覗いて見ると幹が何本か出て集まって一本の木に
見えるような感じです。



茶祖吉村新兵衛翁頌徳碑

すぐ近くにありましたがコンクリート舗装された急な登り道を
登った頂上の広場に頌徳碑はありました。


さて、帰り道にもう一箇所あるキリシタン史跡を見に行きましょう。

  

異宗徒塚跡


切支丹が嬉野にはいった年代は不詳だが、西暦1500年の
終り頃ではないかと思われる。
1600年頃が不動山大野原に切支丹が盛んであった時代で
あろうか。 この天神様の所在地は外道宗跡と云われている。
その頃、切支丹の教会と信者の墓地があったらしいという。
 古老たちの話によるとこの祠堂(祠はもうひとつのしめす
へん"ネ"で書かれています)のそばの土地を掘っていたら、
釘を打ち込んだ頭蓋骨が多数発見されたと云う。
これは当時異教徒と呼ばれた切支丹たちが埋葬に際し頭蓋骨
を釘で貫いたという口碑があるらしく、この物語は恐怖を
もって、永く語りつがれていたことを示している。


案内板より
 

 
子捨谷の案内板にあった大舟地区にあります。

キリシタンの埋葬方法に頭蓋骨に釘?!
にわかには信じられませんが、どうなのでしょうか?!




不動山地区のキリシタン史跡を回りましたが、以前レポートした
東彼杵町〜日本二十六聖人乗船場跡、川棚町〜キリシタン墓碑
ペトロ・パウチスタが「苦しい登り道を越えて大村領の俵坂峠に
たどり着くと、足もとに湖のような静かな大村湾の素晴らしい
景色が広がっていた。」の下りが気になって俵坂関所(口留番所)跡
と大村藩・佐賀藩の藩境石(江戸時代の多くの旅行記に残されて
いるそうです)を見たくなってました。

が、俵坂頂上付近の長崎街道を探しても見つからない。
藩境石は見当をつけていた場所にあったのでそちらから先に
見に行きました。



藩境石(領介石) 


「従是南(これよりみなみ)大村領」の領界石は、元禄三年
(一六九〇)ここより北二百メートルの藩境(現在の県境)に
建てられました。
 高い所に立つ五尺五寸(一.七メートル)の大村藩の界石と
その北側の低い所に立つ「従是北佐嘉領」の二.八五メートル
と背の高い領境石が、よりそって立つ姿は、当時の旅人たちの
目を引く存在でした。
 明治の国道建設後、その所在がわからなくなっていましたが
昭和三十三年、俵坂バス亭付近の土中に、上の部分が欠けた
姿で発見され、ここに移しました。


東彼杵町教育委員会
 

案内板より


 
俵坂関所跡を探して県境から東彼杵町の坂本郷まで長崎街道を
探しましたが見つけられず肩を落として嬉野町に戻って行くと
目の端に小さな看板を発見して慌てて戻ると俵坂関所跡と矢印!
山道の頂上付近じゃなく、佐賀県側の少々下った所にあったのね・・・



俵坂関所跡


江戸時代、幕府の管轄を関所、藩の管轄を口留番所と呼び
正しくは俵坂口留所である。
戦国時代にはすでに関所として機能があったと伝えられるが
創設の時代は不明である。
 江戸時代になると長崎街道として佐賀、大村両藩の要地と
なり、特にキリシタンの取締が厳しかったといわれる。
敷地面積二百余坪、建物は間口四間(七.二m)奥行き七間
(三.六メートル)の構えで侍一名、足軽九名が監視にあたり
通路には門柱が建てられ、その両脇には竹の柵が巡らされて
いた。大名行列御通行には番所役人は威儀を正して平伏し、
送り迎えしたといわれる。
明治維新を向かえ明治四年(一八七二)の廃藩置県によって
廃止になった。


嬉野町教育委員会

案内板より
 


関所じゃなくて口留番所だったのですね・・・

長崎街道には場所場所に当時あった籠立場とかの石柱があって
江戸時代の道中を想像できて興味をそそりました。



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千々石ミゲルとみられる墓石


※ 案内板にあった文字をそのまま転記しています。
「云う」と「いう」や「m」と「メートル」等同じ言葉を
一つの案内板に書いてありましたが、そのまま
移して書いています。



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