東彼杵郡川棚町 

徳島古墳石棺群  



自然石を長方形に組み合わせて石で蓋をする石棺。



思ったより小さい物ですね。



手足を折りたたんだ屈葬だからですが鈴木尚と言う人が
調べられたデータでは弥生時代前期の人の平均身長は156cm
後半で160.5cmだったそうです。



?! 何かしら違和感があります、五輪塔の火輪の上の風輪・空輪?
石棺群の中に五輪塔があったのか、土に埋まってその上に墓地が
出来たのかは今の所、資料を発見できてません。



地図 




小峰城址 



徳島古墳石棺群からみた小峰城址のある山。



急斜面です。膝の調子が良い時に登ってみようかな?!



後藤貴明は大村純前の側室の子供(長男)です。
純忠は有馬家に嫁いだ純前の姉の子で有馬晴純の次男。


小峰城落城の顛末

先年浪人して武雄に移り住んでいた武士
杢尾八右ェ門が後藤勢の道案内をして
小峰城に入った事を知った福田次郎右ェ門と
清右ェ門兄弟は五反田のやりわけで八右ェ門
と出会い「お前の家は元来大村家の家臣では
ないか。」と説得、次郎右ェ門は自身の知行
を分け与えることを約束して純忠公より川棚
に二町歩の墨付を貰って八右ェ門に渡した。

その後、八右ェ門に火付けの道具を送り、
時を申し合わせて八右ェ門は城に火をかけて
女房と共に城を脱出し福田兄弟と逃げると
大村勢が風南城と歌舞多城の両方から一度に
切って出て、混乱した後藤勢は散り散りに
なって波佐見方面に退きました。

この時波佐見の郷士達が矢筈まで追い討って
大勢討ち取り首を塚に築いたそうです。
それからここを「こぶし塚」と言うように
なったそうです。


資料
喜々津健寿 著 続川棚歴史散歩
  



地図 





片平城跡 



福浄寺の裏手の山の西側にあったそうです。




大村軍八郎は西川棚を領し、今の福浄寺屋敷に館を
構えていましたが、大村純忠に叛いたので、純忠は
七〇人を遣わして大手、海手の両方から攻め入ら
せた。このとき長岡備前が軍八郎を討って刀を取る
内に、富永佐渡が首をはねた。元亀三年の頃かという。

資料
喜々津健寿 著 続川棚歴史散歩
 



地図 


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