2011年
唐津市

まつらの姫達の宴
「花と六人のまつらの姫」展・まつらにゆかりのおひな様展など



この時期アチラコチラで「お雛様」をテーマにイベントが行われて
いますが、今回は唐津市の「古代の森会館」で開催中の
「まつらの姫達の宴」を見学に行ってきました。



昭和初期あたりに生まれたお雛様が飾られていました。



昭和27年作趣が違いますね。



唐津市在住の方達のコレクションが見られます。



うちも姫が2人居ますが、こうゆう小さいのをぱっと出して
そっとしまうのが良いです r(w



これは今回の6人の姫の一人「神功皇后(息長足姫
おきながたらしひめ)」です。
神功皇后は鏡神社の一の宮に祭られています。

  
  神功皇后は、夫の仲哀天皇とともに九州の熊襲を討つため、
 筑紫の香椎宮に駐在されました。 戦いの苦戦中に仲哀天皇
 は亡くなりましたが、その後ついに征伐に成功しました。
 ついで神功皇后は新羅遠征を思い立たれました。
 遠征にあたり神功皇后は、肥前国の松浦県の玉嶋の里の小川
 のほとりで、飯粒を朝にして「これで鮎が釣れたならば、
 凱旋するであろう」と占われたところ、鮎がかかったため
 新羅遠征を決意されました。
 出陣の途中、深江村付近で陣痛が起こりましたが、皇后は二つ
 の石を裳の腰に挟み、戦いが終わるまで出産しないように祈願
 したところ、痛みも鎮まりました。この石を鎮懐石と言います。
  その後、松浦潟にある松浦山に登られ、戦勝を祈願された
 ため、その山を「鏡山」、村を「鏡村」と言うようになりました。
 さらに皇后は西の神集島で神々を集められ、最後の祈願をされ
 ました。新羅からの凱旋後、皇后は怡土郡長野村蚊田で男子を
 出産されました。これが後の応神天皇です。

                          展示場案内板より転記 




6人の姫達とお雛様は関係なさそうですね。
ちょっと紛らわしい展示の仕方かな?!



お顔などじっくり見てると子供達はさっさと居なくなりました(汗)



心月尼
しんげつに(円子姫えんこひめ)は琵琶を愛したそうです。
(ただの琵琶なのか縁があるのか何も書いてありませんでした) 

 
  円子姫は青山城(唐津市山本)の城主、青山釆女うねめ正の
 妹で、名を円子と言い、波多三河守親の妻室でしたが、
 一五七四年、九州で県勢を誇っていた佐賀龍造寺家の使者が
 岸岳城に突然訪ねて来て、丁寧に円子姫逝去の弔辞を述べて
 香華料を差し出しました。波多三河守は「妻は健在である、
 間違いでないかと」と問いただしましたが、使者は「主命に
 よるもの」と言って帰りました。城中では、困惑しましたが
 どうすることもできませんでした。しかし、このことを知った
 円子姫は、早くも龍造寺の腹を読み、自ら身を引く決心を
 しました。その後、龍造寺から隆信の娘が波多三河守のところに
 輿入れし「秀の前」と名乗りました。
 円子姫は髪をおろし、「心月尼」と改め青山城の麓に庵を結び
 すごしましたが、やがて世を去りました。
 
                           展示場案内板より転記 




  名護屋帯の復元

 名護屋城跡並びに陣跡を残す鎮西町に伝わる名護屋帯。
 これは文禄(一五九二年)慶長(一五九七年)の役の際
 明や韓から渡来した織工の技法を豊臣秀吉によって広げ
 られたものです。
 錦糸を唐組に編んだ帯は、名護屋在陣の人々の間に流行
 し、この名がつけられました。
 その四百年余りの歴史をふまえた幻の名護屋帯を研究を
 重ね復元させてみました。
 

                         展示場案内板より転記


ん〜・・・組紐を長く作って普段着の和服に今使っても斬新かも。



端午の節句・・・・段々狙いが分からなくなってきましたww



普段目にしない物を見学できるからいいか!



立体的な平面の人形・・・なんて呼ぶのか知識がありません  orz



大正10年生まれのお雛様。

お顔が良いなぁ〜



もう少しゆっくり見たかったのですが小学生が飽きてる

次は玄関から左手にある無料の展示を観に行きます。



次ページに続く 


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