波佐見町

今里廣紀



鹿山神社の一角、波佐見役場を見下ろす所に

今里廣紀先生(1907〜1985)の胸像があります。

胸像の製作は北村西望先生、題字は久保勘一先生

碑文は井上靖先生です。

胸像の裏にある井上靖先生の碑文です。


波佐見が生める偉材今里廣紀先生は明治四十年、素封家

今里家の四男として出生せられる。長じて県立大村中学校を

卒業、家業を継ぐ事10年、青雲の志已み難く、巌父友次郎氏の

許しを得て郷関を出、爾来多難なる星霜を重ね、戦後いち早く

軍需の2社を合併、日本金属産業を設立、民需転換を図る。

その後請われて日本精工に移り、社長として20余年、社運

隆盛の一途を辿り、今日に至る。

先生は性豪磊落、しかも周到細心、その為すところ盡く非凡なる

見識に貫かれ、国家百年の大計より出でざるはなし。

戦後日本の生める数少き志しの人と謂うべし。

今日財界の指導者として重きをなす、盡し当然なり。

知己は政、財界はもとより文化界にも及び、氏の人格を

慕う者、常に氏の周囲に集まる。

先生兼ねて尊神崇祖の念篤く、また郷土を深く愛せられる。

本町の各種公共事業の実施、いずれも先生の協力のもとに

成就せりと言うも過言に非ざるなり。ここに先生多年の意義に

報い、その業績を後世に顕彰せんがため、発起人有志

相集い、鹿山の霊地を求めて、先生の胸像を建立する

ものなり。時恰も菊の季節、芳香地に満ちて、馨し。


昭和51年11月  井上靖撰並びに書
 



隣にある碑にはこうあります。


今里廣紀先生は明治四十年波佐見の素封家今里家の

四男として出生された。

大正十四年旧制県立大村中学校卒業後実家の酒造業

を継がれたが青雲の志やみがたく昭和十二年二十九才

で九州採炭を設立、青年実業家として卓越した識見

をもって実業家に進出の基礎を築かれた同十四年

三十一歳で上京。航空機械工業を設立、同二十三年

四十才で日本精工社長に迎えられ同社をベアリング

界の有力企業に育て上げ同五十七年に相談役に退く

まで三十四年間、社長・会長を務め経営者として

高く評価された。この間同二十二年日経連創立に参加

政界・財界に乞われて戦後の各企業の重職を歴任し

祖国の復興と発展に多大の業績をあげられた。

一方エネルギーの重要性を深く認識されて石油開発

に積極的にとり組、特に共産圏諸国との経済交流に

力を入れ日・ソ経済委員会の有力メンバーとして

国内に限らず国際的にも名を馳せられた。

また時の中曽根康弘総理に懇請され電電公社民営化の

大事業に奔走し成功を見られたのが最後の偉業であった。

その功績は放挙にいとまない、その功績に対し昭和

四十五年藍綬褒章、同五十四年勲一等瑞宝章親授の栄に

浴され同六十年五月逝去されると正三位勲一等旭日

大授章が贈られた。

その人柄は政財界に限らず文学界芸術会等幅広い交友

にしのばれる。

又神をうやまい先祖をあがめる心の篤い人であり、

こよなく郷土を愛しその発展を後輩の為に陰に陽に

尽くされた。

昭和五十四年郷土波佐見町に御功績を譛之先生に

名誉町民の称号を贈り町民一同の誇りとした先生を

惜しむ町民はここに胸像を仰ぎ温故に在りし日をしのび

御威徳を後世に伝えん事を願いここの誌す。


昭和五十一年十一月吉日  清澄会
 



これから見ても戦後の日本の政財界をリ−ドして

こられた方だと理解できます。


「約束したことは必ず果たす。徹底して誠実であれ。

人の面倒を見るならとことんみろ。」
 


この言葉にも見て取れるように誠実で面倒見の良い

人柄を感じ取れます。


故郷波佐見町を愛し,本町の為に公共事業を進めました。

野々川ダム建設、水田圃場整備事業、河川の改修については、

大臣や国会議員と自ら交渉にあたられたそうです。

波佐見中学校建設にあたっては,多額の私財を贈られました。

雇用も波佐見町民を多く受け入れて下さったと聞きます。

今里廣紀先生が愛されていた事は今でもなお

この胸像の前は綺麗に掃き清められている事で

証明されてると思います。


波佐見総合文化会館の図書館には今里廣紀文庫が

宿コミュニティーセンター内には今里廣紀先生資料室が

設けてあります。



参考資料

はさみ100選ガイドブック
(波佐見町教育委員会発行)

今里廣紀先生 生誕100年
(今里廣紀先生生誕100年記念祭宿郷有志の会発行)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』



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