亀井山東前寺の由来
奈良朝の初め、人皇四十三代元明天皇の御字、和銅四年(711)
辛亥正月。菅原寺の大僧正行基菩薩築紫を巡廻し肥前国
東彼杵郡波佐見村に止錫の時、同所金谷山に一寺を草創し
金谷山東前寺と号す。行基みずから「厄除藥師如来」の
尊像を彫刻し安置するところの本尊藥師如来の尊像これなり。
行基この時四十四歳なり。
天平十六年(744)義弁僧都が来郷して金谷神社および
十二寺六坊を建立す。
○
十二寺
金谷 長福寺 金谷 三蔵寺 金谷 智拳寺 平瀬 西前寺
平瀬 福善寺 平瀬 寳泉寺 平瀬 清蘭寺 平瀬 寳蔵院
平瀬 聖之菴 中山 西福寺 中山 繁昌寺 中山 法輪菴
○
六坊
金谷坊 日蔵坊 正面坊 金色坊 安楽坊 清躰坊
その後人皇六十六代一条院の御宇、正暦五甲午年(994)
始祖大村遠江権守藤原正澄公、肥後国藤津、彼杵、高来の
三群を賜り伊予国大洲(愛媛県)より大村に入国、この時
波佐見平瀬を寺領として當寺に寄進す。
(柳谷より片渕までの間百七石余。 郷村記より)
當寺は十二寺六坊を付属して境内益々広く堂宇弥々美麗なり。
然りといえども弘治(1555)の兵乱、天正(1572)の
耶蘇発起後、郡内の寺社ことごとく頽廃、當寺もまたその
兵火にかかりて一宇も存在せず焦土となる。
幸なる哉、本尊薬師如来飛んで火中を出で当山の深林に入り
大樹朽節の中にあり、即ち、これ行基みずから彫刻する処の
尊像まことに奇妙というべし、この後、寺門廃亡すること多年。
大村丹後守喜前公、深く当寺の廃絶をなげき慶長十年(1605)
波佐見の橘氏及び諸郷士に命じて再興す。
広麗旧観に及ばずといえど壮麗すでに成りて藤津郡塩田郷
正一位丹生大明神別当教王山常在寺権大僧都法印成周を請待して
当山中興開基とす。
成周法印は耶蘇宗門を鎮め真言の密法を説き檀越をすすめ、
神社、仏閣及び当寺の付属十二寺金谷六坊を再興。この功によって
境内六町余、寺領五石余寄附あり。
その後寛永六年(1629)当寺を金谷山より平瀬郷亀井山に
遷す。此の境内に亀石と云って形が亀に似た石あり。
此の石の下から清水が湧き出したので此の山号に改める。
この時寺領十四石余寄附あり。
当山中興開基周第三世堯算の三代の内、波佐見郷中に再興する所
の大小の神社およそ百二十余社あり。
明治三年、廃藩置県と廃仏毀釈の嵐に遭い廃寺の憂目をみる。
檀家は上波佐見村 教法寺、川棚村 常在寺に改宗離散せり。
明治?年平瀬小学校となる。
明治十二年、松尾籐内、松尾庄兵衛、東前寺再興の悲願を起こし
萬難を排し再興の許可を得て高野山西明院より「弘法大師」を
授与され明治十四年、本堂を新築す。
高月※平(※は昔の漢字で分かりませんでした)
山口又一、馬場伊兵衛、今村幸平次、原猪左ェ門、田嶋興三朗
馬渡喜代治発起し盡力せり。
明治二十年、梵鐘を鋳造して鐘樓を建て苦心経営を経て今日の
発展をみる。然るに昭和十七年十二月大東亜戦争により止むなく
梵鐘、仏具を供出。終戦後只管平和を念願し昭和二十六年九月
再度梵鐘を荘厳し慈悲の心を呼び覚す。
昭和四十四年十月、十方檀越の協力を得て納骨堂を建立し東前寺
開創壹千弐百五十年記念大法曾を厳修す。
納骨堂落慶庭儀理趣三味法要並びに柴灯大菩薩供・結縁灌頂法要
が執行され、参詣者雲集し法悦歓喜して盛大なり。
昭和四十七年(1972)は草創より一二六一年目なり。
二十八※(※は昔の漢字で分かりませんでした) 龍昇誌
境内案内板より転記 |