波佐見町の偉人

黒板勝美

明治7年9月3日、下波佐見村に生まれる。
(下波佐見村は後、1956年6月1日、上波佐見町と合併し現在の波佐見町となる。)

実弟に黒板傳作、従弟に今里広記がいます。
(黒板兄弟の妹が今里家に嫁ぎその実子が今里広記になります)

旧制大村中学校(長崎県立大村高等学校の前身)・
旧制第五高等学校(
熊本大学の前身)を経て帝国大学
文科大学国史学科を卒業、帝国大学大学院入学。

明治34年、
東京帝国大学史料編纂員となり、
翌年東京帝国大学文科大学講師を嘱託されて、
明治38年史料纂員官兼東京帝国大学字教授となりました。

同年「日本古文書様式論」により文学博士の学位を
授与されました。


大正8年、史料纂員官兼東京帝国大学教授に就任し、

大正9年、東京帝国大学教授専任となります。

昭和10年、東京帝国大学教授を退官、東京帝国大学
名誉教授の称号を頂きました。

昭和11年、史跡調査中に倒れ、闘病生活の末に

昭和21年12月21日東京都の自宅で死去しました。

享年73歳



黒板勝美先生は古文書学の体系化にあたり日本史研究の
基礎資料となる古典籍の普及に努めました。

古社寺保存会・史蹟名勝天然記念物調査会・国宝保存会
・重要美術品等調査委員会・朝鮮総督府宝物古蹟名勝
天然記念物保存会・法隆寺国宝保存会などの委員を務め
文化財の保存に尽力しました。
アンコールワットに残された日本人の墨書の研究もなされました。

他にも聖徳太子奉賛会・吉野神宮奉賛会・日本
エスペラ
ント
語協会を設立しました。

また、日本古文化研究所を創設し、
昭和11年、「国史館」と仮称される国立の博物館と
研究室を兼ねた機関の設立の構想が具体化されたが
同年に黒板勝美が倒れたために実現されませんでした。

以上のような立派な仕事を残された事で歴史の大家、
近代歴史学者の祖と呼ばれ
正三位勲二等
瑞宝章を授与されています。



文学博士黒板勝美殿・工学士黒板傅作殿寄贈之地の碑

現在の南小学校の敷地の東側半分を寄贈された事を
後の人達に伝える為に建てられた石碑です。

黒板家と深くつながる4家に田地4段余りを与え、
共生田としました。田ノ頭郷公民館横に共生田碑
が残されてます。



碑文には昭和5年4月14日の日付がありました。

碑文左側面 ・ 背面 ・ 右側面  
(リンク先の画像をアップすると詳しい文面が読み取れます)
 

黒板兄弟は生涯本籍地を田ノ頭郷としたそうです。




参考資料
 
はさみ100選ガイドブック

Wikipedia

大村観光ナビ


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