波佐見町永尾郷

白山神社







白山神社は、永尾分校の近くにあって、江戸時代まで
三股・永尾・小樽の鎮守でした。「郷村記」には
「当社草創時代知らず」とありますが、
多分、陶石にちなんで、焼物の神様として祀られたのでしょう。

元禄年間(1688〜1704)には野面石を神体とし社殿はありません

(「大村記」)でしたが、天保年間(1830〜1844)には、
神体は石座像で拝殿は2間ばりに3間1尺瓦葺となっています。
(「郷村記」)、今の拝殿は天井絵があり、社前に明治8年(1771)
三股皿山の井関権右衛門、同孫右衛門の奉献した石灯籠、
長崎本五島町松久三十朗、同民蔵の銘のある石灯籠が
あるのは焼物と関連ありと思われ、その他文化、慶応の年号入りも
あって、江戸時代に深く崇められていたことがしのばれます。


波佐見教育委員会発行「はさみ100選ガイドブック」より
 















隣の祠には不動明王や如来?菩薩?!

が祀られていました。(持ち物や構えで分かると

思うのですが私は全く待って勉強不足ですので)汗



落ちた紅葉が溜まって色を出していましたので

ついシャッターを切りました。





左隣に石碑を見つけました。

「長崎貫一翁頌徳碑」とありました。

ネットで検索しましたが見つからず途方にくれていましたが

「はさみ100選ガイドブック」に記載がありましたので

転記します。


長崎貫一頌徳碑は永尾郷白山神社にあり、
大正12年(1923)永尾郷が建てました。

題字は従四位陸軍少将大村純英の筆、碑文は
従六位勲四等小野七五三(しめ)蔵(東彼杵郡長)です。

長崎貫一は安政5年(1858)永尾郷の郷士の家に生まれました。
医師となって偉丈夫な翁が馬上豊かに往診する姿は
尊敬のまとでした。明治25年(1892)に35歳の
若さで上波佐見村議会委員となり、以来死去する大正12年
(1923)まで32年の長い間村政に尽くした功績は
数え切れないほどです。

明治36年(1903)に東彼杵郡会議員に挙げられ大正12年
群制が廃止になるまでの20年間、その任を全うしました。
その間群参事会員として群制の重要な役割を果たし、
群会議長に前後3回擁されるなど衆望があったことや、
識見が高かった事が知られます。

また、学務委員として数十年の長い間、教育の向上に尽くし、
地方自治の発展に尽くした功績は多大でした。
翁は私人として温厚で長者の風格がありましたが、
公人としてひとたび議政譚にのぼると論説するどく
向こうところ敵なしといえました。
 


波佐見教育委員会発行「はさみ100選ガイドブック」より


7月15日に夏越祭りがあります。

地図


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