波佐見町折敷瀬郷

東地区招魂場



甲辰園グランドよりもう一登りしたところにあります。

明治37年(1904)の日露戦争の折戦死された方々を祀る為に
建てられた碑です。 「忠魂碑」の文字が彫られています。

明治38年(1905)九月に完成し、「甲辰園」と名付け
られたそうです。(日露戦争の年が、甲(きのえ)
辰(たつ)だった事が由来してるそうです)


碑文にこう書いてあります。


戦場に傷つき病に冒された多くの戦友

その上に築かれた今の繁栄と幸福

これらつわもの義勇の心と平和の

願いを伝えてほしい


衆議院議員 虎島和夫 書 




陶祖 李祐慶の碑



波佐見焼きの陶祖である李祐慶は大村藩主
大村喜前が朝鮮から招いて波佐見村に登り窯を
開きました。


  甲辰園の丘の上に、昭和43年(1968)
 波佐見焼き創業370年記念事業の一つとして
 陶祖、李祐慶の碑が建てられました。

  李祐慶については、故郷、韓国の出身地や業績
 について明らかにする資料はまだ発見されて
 いません。口伝によれば、慶長3年(1598)
 大村喜前が慶長の役から帰国する際、喜前の
 招きで大村藩に帰化し、村木郷の畑ノ原に
 窯を築きます。その後、中尾郷に移住して
 中野七郎右衛門と改名し、波佐見窯業の発展に
 尽くしますが、元和2年(1616)善前が
 急死した際、後を追って殉死したと伝えられて
 います。なお、大村市にある本経寺の善前の
 墓前に「朝鮮人 秀山」銘の墓があり、それが
 李祐慶の墓ではないかと言われていますが、
 はっきりしていません。

  李祐慶については、以上のように、未だ明らか
 になっていない点も多いのですが、波佐見では
 波佐見窯業創始者の大恩人として例年5月1日の
 陶祖まつりを行い、厚く感謝の意を表しています。
 

         はさみ100選ガイドブックより




秀山(李祐慶と思われる)の墓
大村市本経寺






一瀬操先生の碑



 


  一瀬 操は(前名長蔵)は弘化2年(1845)
 大村藩士の家に生まれ、藩校五教館で松林飯山の
 指導を受け、剣を渡辺昇に鍛えられました。
 のち藩命で江戸に上り昌平校に学びました。
  時は幕末の風雲急をつげましたので、学び半ば
 で京都に上り渡辺清左衛門(昇)の新鋭隊に
 加わりました。鳥羽伏見の戦いには大津を守り
 錦の御旗をひるがえす東征軍として東海道を進撃
 江戸城明け渡し後は奥羽へ転戦した人です。

  明治6年(1873)10月、学制発布による鹿山小学校
 (現役場敷地)が開校されると主席教員(校長)として
 赴任、住居を波佐見に移しました。
 以来教鞭を20年とり、鹿山小学校の育ての親でした。
  この間の教え子たちは明治、大正の波佐見を背負う
 人たちで、中には黒板勝美、傳作兄弟、本田雄五郎
 医学博士、地元では今里友次郎、岩永清四郎、
 松尾義暉、小林九十郎などです。
  その後明治26(1893)年から同39年(1906)
 までは波佐見郵便局長を勤めました。
 大正5年(1916)72歳で亡くなりましたが、教え子達は
 その徳を慕って先生の碑を甲辰園に建てています。

         はさみ100選ガイドブックより
 





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