波佐見町の偉人 やがて宿題の真円真珠の開発に成功し、大正9年 貧農の子と生まれながらも功成り名をとげた末五郎は 八島の観音堂に立つ頌徳碑は、生まれ故郷のために 俵ヶ浦半島の中ほど、俵ヶ浦小学校の北に九十九島 明治13(1880)年、当時の東彼杵郡下波佐見村 このころの養殖真珠は貝殻に付着した半円のもので、
高島末五郎
世界の2大真珠王と呼ばれた方です。
(写真ははさみ100選ガイドブックより引用)
高島末五郎は稗木場郷が生んだ立志伝の人です。
明治13年(1880)八島に生まれましたが
家が貧しくその上父が早死にしたので学校へも
ろくろく出してもらえず、小さい時から他家の
子守などをしながら苦労して育ちました。
少年時代から手先が器用で、時計商の店員と
なり、自分で行商をしたこともあります。
そのうち真珠に着目して大村湾産の天然真珠を
仕入れ、大阪方面へ売り続けました。
大正2年(1913)、初めて俵が浦(佐世保港口)
で小さな真珠養殖を始めましたが、そのころは
まだ半円真珠の養殖で技術も初期のものでした。
あるとき三重県の真珠王、御木本幸吉氏を訪ね
「真珠づくりは国を豊かにする立派な仕事だ」と
励まされ大いに発奮しました。
(1920)には真円真珠の養殖を始めました。
最初の漁場は俵が浦と鹿子前一帯で、のち相浦、
鹿町、長浦、大塔、五島、伊万里と拡張し、昭和9年
(1934)長島真珠養殖場を引き受け、
漁場はますます拡大します。
昭和12年(1937)には年間1,300kgの真珠が
でき、神戸に支店を置いて主に外国に輸出しました。
この頃には東の御木本、西の高島と並び称される
までになりました。
昭和26年(1951)1月、72歳の生涯を
終えました。末五郎には子がなかったので兄の子
吉郎が後を継ぎ、ますます高島真珠の名をあげました。
地域振興資金、ガソリンポンプ購入資金、奨学資金など
多額の寄贈を感謝し郷中から建てたものです。
はさみ100選ガイドブックより
九十九島の亀の子島(俵ヶ浦町)
Google Earthより
の1つ亀の子島があります。本土に近い小さな島
ですが、陸地とは180mの橋で結ばれています。
ここは高島真珠養殖俵ヶ浦分場があったところで、
最盛期の昭和30年代には50人もの従業員が
働いていたのです。
稗木場生まれの高島末五郎は、大村湾で採れる
アコヤ貝から真珠が取れ、外国に高価な宝飾品
として珍重されることを知り、明治35年に大村湾から
九十九島海域でのアコヤ貝採取権を得ました。
欧米や中国で販売するとともに、三重県の御木本幸吉
が真珠の養殖を始めたことを知り、早速彼も養殖を始め
ました。大正2(1913)年のことで、その地が
亀の子島なのです。
2年後に天然物と同じ真円の遊離真珠を作る技術が
実用化し、亀の子島での養殖が本格化しました。
大正6年の山口村(現相浦地区)郷土誌に「真珠貝
の生産4万貫(150kg)価格1万円」とあり、
急成長ぶりがうかがえます。
昭和12(1937)年には世界一の生産量を達成、
御木本真珠と並んで養殖真珠の双璧とたたえられ
ました。また、戦後は復興に必要な外貨を稼ぐ
有力産業だったのです。
高島真珠は平成14年に倒産し、亀の子島の養殖場
も休業しましたが、県や市で観光活用を検討して
います。 以下省略
佐世保市広報2005年1月より抜粋
養殖真珠最盛期には、北松の小佐々・西彼の亀岳・
小佐々村の西川内・相浦町の棚方・佐世保市の大塔・
大串村の長島・長浦村と、つぎつぎに養殖場を
ふやしていったそうです。高島真珠の年産額は
ついに440貫(1,650キロ)にのぼり、生産額では
御木本を抜いて世界第1位になりました。
平成の世になって倒産するまでは本社は佐世保市の
大塔にありました。 (長崎県佐世保市大塔町1082)
碑木場郷八島、八島会館の横にある頌徳碑
参考資料
はさみ100選ガイドブック
佐世保市広報2005年1月号
長崎文化ジャンクション
参考リンク先
Wikipedia
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