波佐見町 田ノ頭郷

福田金右衛門の墓



上田ノ頭バス停から東に入って長尾宅の裏手に、数基の墓石とともに

福田金右衛門の墓があります。1,5mほどの自然石に「法名 学要院

常降霊」の法名と、その左に「福田金右衛門尉頼勝」と刻まれています。

金右衛門は最期の松山城主で、秀吉の朝鮮出兵に17歳で父、

平左衛門忠勝や祖父、薩摩守田忠兼とともに出陣し、慶長17年(1612)

と寛永8年(1631)の2回にわたって検地奉行を勤めました。

この功によって120石に加禄されました。

検地とは田畑の一筆ごとに面積を測り、地味を調べて石高を決めることです。

金右衛門らが行った検地で大村藩の石高は27、972石となり、この石高

が江戸時代を通じて幕府が公認した大村藩の朱印高となりました。

また、金右衛門の他の一面は、代表的なキリシタンで、スペインの文書館に

残っている西九州信者の署名の中に「福田金右衛門阿たん(ANTAO)」

があります。※1西圓寺文書で、八島の寺(教法寺)の寺地は福田金右衛門の

知行所で、知行所に寺は不似合と拒否したと記されています。

金右衛門等主だった家臣は大村城下に移り住んだが、田ノ頭に墓があるのは

彼の知行地だったのか、隠居していたのか定かではありません。


はさみ100選ガイドブックより


※1 
波佐見町の西圓寺か分からなかったので地図リンクしてません。

はさみ100選ガイドブックを見ると写真の左にもう一基お墓があるようで
それが福田金右衛門の墓かもしれません・・・個人宅を通っていかないと
いけないようで道から写真撮りましたもう一度行ってみたいと思います。



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