波佐見町

くらわんか碗・コンプラ瓶


 江戸時代、波佐見では多種多様なやきものが生産されてきましたが、
 その中でも、くらわんかとコンプラ瓶は、当時の波佐見の代表する
 やきものと言えます。
 最初にくらわんかについてですが、まずはその言葉の意味から見て
 いきましょう。

 江戸時代、大阪、京都間を流れる淀川には、三十石船と呼ばれる
 客船がたくさんのお客さんをのせて日々通っていました。
 この船に小舟で近づき、「あん餅くらわんか、酒くらわんか」と
 かけ声をかけ、酒や食い物などを器に盛ってお客さんに売る商売が
 繁盛していました。
 使われた器はそのかけ声から「くらわんか茶碗」と呼ばれていましたが、
 使い捨てされるほどの安いものであったそうで、その後、いつの
 頃にか江戸時代の安い器を総称して「くらわんか」と呼ぶように
 なったと言われています。

 波佐見では、元禄年間(1688〜1704)から、くらわんかの
 生産を開始し、以降、幕末まで、世界最大規模の大新登窯をはじめと
 する巨大な登り窯によって、膨大な量のくらわんかを生産し続けました。
 そして、くらわんかは全国隅々まで運ばれていき、江戸時代の庶民の
 食卓を飾ることになったのです。
 続いて、コンプラ瓶ですが、海外輸出用の酒やしょう油をいれる瓶で、
 仲買を意味するコンプラドールという言葉に由来する長崎出島の
 商人ーコンプラ仲間ーが取り扱っていたことから、そう呼ばれるように
 なりました。コンプラ瓶の表面には「JAPANSCH ZOYA」(日本のしょう油)
 、「JAPANSCH ZAKY」(日本の酒)とオランダ語で表記されています。
 コンプラ瓶は波佐見で生産された後、長崎に運ばれ、たぶんそこで
 中身であるしょう油や酒が入れられ、そして、出島から海外、東南アジア
 諸国やヨーロッパへ向けて船積みされたと考えられます。
 コンプラ瓶は、19世紀前半代に生産が開始されて以降、大正時代まで
 生産されました。波佐見の窯では、三股・永尾・中尾の諸窯でその生産が
 確認をされています。 

 
はさみ100選ガイドブックより


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