深沢義太夫勝清





江戸初期に鯨大尽として有名な深沢義太夫は、
波佐見町中尾郷出身です。
井石城主井石公房の甥が中尾に住んで中尾姓を名乗り、
その孫が中尾次左衛門勝清、のちの深沢義太夫です。
妻は内海城主内海政勝の娘です。

青年期まで中尾に育った次左衛門は、武者修行の旅で
紀州太地(和歌山県)で、捕鯨の勇ましさにひかれ、
九州最初の鯨組をくんで対馬海峡を上下する鯨を追い
ました。
創業の苦労、多くの組員の統制などの困難を乗り越え
平戸、五島、壱岐へ根拠地を広げ、最盛時には百頭
からの鯨を捕らえました。
鯨一頭で七浦潤うといわれるほどですから大金持ちと
なり藩への献金も莫大であり、また東彼杵町千綿の
四ツ池、大村市松原の野岳堤などを築き盛んに
新田を開きました。

深沢姓や家紋の金枡は殿様からいただき、
深沢義太夫と改めました。

山で育った義太夫は海の勇者となり、寛文3年(1663)
80歳で天寿をまっとうしました。

はさみ100選ガイドブックより 


中尾次左衛門勝清(1583〜1663)のちの深沢義太夫勝清は
捕鯨により莫大な富みを得たといいます。

しかし、私利私欲に走らずその富を人々の為に使った偉人です。
灌漑事業、大村の円融寺、長安寺の本尊を建立、壱岐の龍蔵寺
の本堂の造替をして寄進(龍蔵寺には深沢儀太夫勝清の供養塔があるそうです)
道路拡張の大事業、大村藩にも多額の運上金を献上しています。

特に農民に潤いをもたらした灌漑事業は今もその形を残しています。
野岳堤(現野岳湖)は個人の財力で成した事業としては大事業だと思います。



野岳堤は現在野岳湖 と呼ばれキャンプサイトやアスレチック、
公園などが整備され観光地となってますが今も尚、灌漑用の
堤として機能しています。



ここから田に水が送られています。



1年7ヶ月、4200両の資金をもとに1663年に完成しました。

1663年(寛文3年)3月3日の野岳堤の完成を見届けるように
3月17日、深沢義太夫勝清、享年80歳でこの世を去りました。





三井木場堤

他にも東彼杵町千綿高原の四ツ池 も兄弟の勝幸の二代にかけて作られました。
(三代重昌はその後、大田代堤、綿打堤を完成させました)

この三井木場堤は義太夫勝清が築造したそうです。



蕪堤



鹿ノ丸堤


画像をクリックすると中堤全体像、三井木場堤に流れ込む水路の動画が再生されます

中堤、この3つは2代目深沢義太夫 勝幸が築造しています。
中堤は日本初の地下灌漑用水路を掘り作られたそうです。

この3人の偉業を讃えて平成14年、東彼杵町は三井木場堤の
横に「深沢三代顕彰碑」を建立しました。

この横にある案内板には初代深沢義太夫勝清は現佐賀県
武雄市北方町芦原で生まれた・・・と書いてあります。

長崎県のHP、波佐見町教育委員会発行「はさみ100選ガイドブック」
を参考に、波佐見中心な私は義太夫勝清は波佐見町中尾郷生まれと
考え、波佐見の偉人に上げています。





大村藩4代藩主、大村純長が作った旧円融寺の庭園は
義太夫の寄進で作られたそうです。



東西に50m、400個の石を使った江戸初期様式の石組庭園
としては全国的に見ても数少ないようです。



参考資料

はさみ100選ガイドブック(波佐見町教育委員会)
長崎文化ジャンクション
各地の案内板


2009年7月 up
2009年10月 更新


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