波佐見町
原マルチノ
(天正遣欧少年使節副使)
波佐見町総合文化会館(ウエイブホール)駐車場の
一角に立つ原マルチノの銅像。 地図
波佐見町出身の偉人を語る上で多くの人がこの名を
上げると思います。
原マルチノは原中務はらなかつかさの子として生を受け(永禄12年頃、1569年)
(協和郷では原マルチノが育ったとの言い伝えがあるらしい)
両親がキリスト教徒であった事もあるのでしょう、
司祭を志して有馬のセミナリヲに入りました。
原マルチノが12〜3歳位になるでしょうか
(4人の中で最年少)
天正遣欧少年使節の一員として、
伊東マンショ、千々石ミゲル、
中浦ジュリアン
と共に九州のキリシタン大名、大友宗麟、大村純忠、
有馬晴信の名代としてローマへ派遣されました。
1582年2月20日長崎港を出港。
ポルトガル国副王の使節という資格で1590年帰港するまでに
西洋の見聞を広め、活版印刷機、西洋楽器、海図を持ち帰りました。
1587年、原マルチノはインドのゴアの学院において、
ヴァリャーノ神父へ感謝の演説をラテン語で送る。
1591年、聚楽第で豊臣秀吉に謁見。
この際西洋音楽の演奏をしたと言う(秀吉は3回アンコールしたとか)
1587年バテレン追放令が出されておりキリスト教を学ぶ
彼らにとって暗雲たちこめる中、最後の華やかな舞台で
あったのでは無いのだろうかと思います。
1591年天草の
修練院に入り1593年、
イエズス会に入会(他3人も)コレジオに進みます。
伊東マンショ、中浦ジュリアンは神学の高等課程を学ぶ為に
1601年、マカオのコレジオへ渡る。
千々石ミゲルは千々石清左衛門と改名し大村喜前に仕え
喜前の棄教と共にキリスト教から離れました。
原マルチノは修道士として長崎に住み布教と
様々な問題の間に立ち調停し長崎の信者から深い
信頼を得たといいます。
1608年、伊東マンショ、中浦ジュリアンと一緒に司祭に
叙階される。その後もメスキータ神父を助けて翻訳、
印刷の仕事をして「日本で一番立派な通訳」と呼ばれ
ラテン語の本を日本語に翻訳しています。
1611年新しく赴任してきた管区長のイタリア人は
日本語が分らずマルチノが秘書官となります。
1613年、徳川家康がキリスト教禁止を全国にふれ
弾圧が厳しくなり1614年、マカオに国外追放されます。
マカオでは「マルチノ・デ・カンポス神父」と呼ばれ
その一生を神に捧げ、1629年2度と故郷の地を
踏む事無く遠くマカオの地で60年の人生を終えました。
2008年11月26日加筆
2009年6月更新
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