2009年

大村市

大村藩とキリシタンの史跡巡り




鈴田牢跡です。

ここは道から見えましたので楽に発見できました。

今も巡礼者が来られるようで駐車スペースには
巡礼者以外は駐車しないで下さいと書いてあります。
ここには外国人宣教師ら30数名が捕らえられていた
牢屋の跡です。奥行き6.6m、間口4.6mの鳥篭
の様な牢だったそうです約5年間も投獄されて
8名はこの後訪れる
放虎原で、他の方は長崎の西坂
殉教されたそうです・・・




地獄門所跡です。

実は道に迷ってフト気付くとここに来ていました。
郡崩れで、処刑された131人の首を塩漬けにして
20日間晒し首にした場所だそうです。
(郡崩れは四代藩主大村純長の時代)



想像しただけで鬱々としながら近くで分かりやすいであろう
放虎原殉教地に向います。



放虎原殉教地の碑です。

100m位行き過ぎて戻って来ました(w
思ったよりも大きな殉教顕彰碑です。

先ほど行った地獄門所跡で131人が処刑された場所です。
敷地内の案内板には郡崩れの顛末を詳しく説明されていました。
(少し時間を取ったら書けるかもしれません)





妻子分かれの石です。

131名のキリシタンが刑場に引き立てられる途中
縁者と水杯を交わした場所です。
今でもこの石はコケが生えないという事です。




妻子分かれの石から程近い場所に
本経寺があります。

ここは大村氏の菩提寺です。




大きな墓石に圧倒されます。



これが大村喜前と純伊の墓です。

大村純忠は一時、宝生寺の教会に葬られて
後、本経寺に移されたそうですがその墓は
現在確認されていないそうです・・・・

何があったのでしょうか?!

こんなに立派な墓石が立ち並ぶ中、純忠の墓が
分からないとは・・・(※1)

コレをクリックすると墓所を見回す動画が再生されます)




クルス灯篭です。

造られたのが郡崩れの跡なので単にデザインとの
見解のようですが、ある意味大胆ですねぇ〜




秀山の墓

秀山

喜前公の徳をしたい、朝鮮の役後、
ともに来朝帰化して陶法を伝う。
波佐見焼の元祖か・・・(※2)
喜前公の死にあうや後を追うて
殉死す。

案内板より 


波佐見焼きの陶祖、李祐慶の墓です。

秀山のお墓に手を合わせたかったのも
本経寺に来たかった理由の一つです。





胴塚まで100mだったかの案内板見たのですが
よく分からず地図である程度憶えていた
首塚に来ました。

何の案内も無くいきなりポツンとありましたので
驚きました。写真撮ってると通ってる人が何の像だろうと
言うような目で見てらしたのが印象的でした。


路地を戻って胴塚の標識の所に戻り「もしかしたらこの
木戸道のような道を入って行け?!って事かと理解し
進むと胴塚に出ました・・・
(普通自動車では入らないと思います)




本通りから探した時は八坂神社の裏手探したのですが
もう少し奥で気付けませんでした・・・

首と胴を別々に埋めたのはキリシタンの呪術で生き返るのでは
無いかとの恐れがあったようです。


前回下見した時に自動車では廻れないと思いましたので
2輪で周りましたが正解でした。

しかも初めて来た人が分かるような案内が無かったのが
残念でありません。


でも秋の良い日和にのんびりと(でも無いか)散策出来たのは
良かったです。各史跡は基本的に駐車場はないと思って下さい。

地図を見ながら何処に車止めて歩くなり考えた方が
良いと思います。必ず下調べはしないと迷うと思います。


関係して天正遣欧少年使節なり関係史跡を回ると
歴史にちょっとだけ触れた気がします。


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※1 純忠が宣教師に許可をして、寺社仏閣を
     焼き討ちにし天正二年(1574)キリシタンが
     大村純治
(純伊と同一人物らしい)純前(純忠の養父)
         墓をあばき郡川に流した事と関係がしてるかも・・・


※2 口伝えのみで証明する史料が無いようです。



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川棚町〜キリシタン墓碑


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参考にしたHP等

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

波佐見町教育委員会事務局

大村市ホームページ

大村観光ナビ

諫早webサイト

「原マルチノ物語」
波佐見町教育委員会発行(昭和57年発行)


本経寺HP 


2009年11月 更新

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